「阿佐ヶ谷地域区民センター」を杉並区が東電に無償で明け渡す不可解


 杉並第1小学校(阿佐ヶ谷北)を複合施設(地上4階+屋上運動場案と地上8階+地上運動場案)に建て替える計画は、保護者の間からも疑問が噴出している。23日に同校で開催された保護者対象の説明会では、「耐震工事をしたばかりなのになぜ建て替える必要があるのか」「なぜ複合施設なのか」といった疑問が次々にだされた。区側は「老朽化」「補修に費用がかかる。コスト面から判断した」などと説明した。しかし、ぬぐいがたい疑問は残る。

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 老朽化は事実としても、耐震性に問題がないことはすでに明らかになっている。また、コストについては、閉会後、本誌記者が学校整備担当部長をただしたところ、具体的なコスト計算を行っていないと答えた。説明会では、区営阿佐ヶ谷地域区民センター(阿佐ヶ谷南)を現在地(阿佐ヶ谷南)から杉一の複合施設に引っ越しする理由として、東京電力から借りている現在の同地域区民センターを退去する必要がある旨地域課長が説明した。

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 しかし、これも閉会後同課長に質問したところ、同地域区民センターの貸し主である東京電力から退去の要求がだされた事実はないむね明言した。

 地域課長の説明によれば、現在の阿佐ヶ谷地域区民センターは、土地が民間の所有で、建物は東京電力の所有となっている。そして杉並区は東京電力から「建物賃貸借契約」によって建物を賃借しているという関係にある。情報公開請求で確認したところでは、賃料は月額539万9800円。借りている物件をなぜ出て行かねばならないのか。地域課長によれば、「老朽化が進んでいるため東京電力にたいして建て替えてほしいと要望したが断られた。そう聞いている」というのが退去の理由だという。

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 ところが、これが事実とすれば奇妙というほかない。借主である杉並区が大家にあたる東京電力に「建物が古いから新築してくれ」などということ自体、常識ではありえない話だ。耐震に問題があったり不具合があれば東京電力に補修義務がある。もし、東京電力が「建物を明け渡してほしい」といってくれば、当然借主の権利として退去費用を要求できる。そもそも東京電力の土地ではなく、東電も地主から借りているのだから、東電から杉並区に対して出て行ってくれということは、地主が再開発したいなどといった事情がないかぎりあり得ない。

 もっとも月額500万円の賃料がもったいないという判断もありえる。しかし、複合施設にいくらかかるかもわからないといっている。コスト計算も前述したとおりしていない。

 杉並区は大家の東電から「出て行ってほしい」といわれるまで現在の阿佐ヶ谷地域区民センターを使うことができる。わざわざ出ていかねばならない理由はないし、自ら出ていく利点はなにもない。

「老朽化」を口実に退去費用ゼロで賃借物件を出ていき、「あたらしい場所が必要だ」といって何十億円かかるかわからない建物を狭い小学校のなかに建てようとする。不可解というほかない。

 読者からの情報提供をお待ちする。

 

 

「桃2小学校を建て替えてほしい」――地元町内会の「要望書」は杉並区の“やらせ”だった?


 2004年に約30億円をかけて建設したばかりの杉並区営施設「あんさんぶる荻窪」(杉並区荻窪)を財務省に税務署用として譲渡、対価として現在の荻窪税務署の用地を受け取ったうえで、あらたに30億円をかけて複合施設を建設。同時に「あんさんぶる」内にある児童館が使えなくなることの取り繕いとして、区立桃2小学校の校舎を30億円をかけて建て替えて「学童クラブ」をつくる。--いきあたりばったりの税金垂れ流し計画というほかない「財産交換問題」をめぐって周辺住民からは強い反対の声があがっている。23日に開かれた住民集会には100人以上(注・訂正しました)がつめかけ、計画撤回を求める意見があいついだ。

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 「あんさんぶる荻窪」は子どもの教育環境を向上させようという意見を中心に、住民らが長年の議論を経て練り上げた思い入れのある建物だ。それを築10年ほどで税務署に明け渡すことに、子育て中の親をはじめとする周辺住民は強い違和感を感じている。

 なぜ「あんさんぶる」を手放さねばならないのか。杉並区の説明は「特養施設を緊急につくる必要がある」である。しかし、この説明は説得力を失いつつある。「財産交換」計画が公表される3年前の2010年に、じつは財務省にあてて田中区長が「税務署の建て替えを待ってほしい旨要望していた事実が発覚したのだ。

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 この要望文書について本誌記者が区企画課に問い合わせたところ、おどろいたことに「廃棄した」と説明した。さらには「どんな要望だったか内容もわからない」とも説明をした。奇妙というほかない反応で、じつは「特養」は口実にすぎず、都合の悪いことを隠しているのではないかと疑わざるを得なくなった。

 荻窪駅北側に複合ビルを建てて税務署に入居してもらう腹づもりで財務省に対して税務署建替えに待ったをかけたものの、じっさいにやろうとするととん挫した。ひっこみがつかなくなってあんさんぶる荻窪を財務省に提供し、現在の税務署の場所にあんさんぶるを引っ越しさせ、ついでに残りの土地に「特養」を民間でつくらせるという強引な案をひねり出したのではないか。――というのが事情通のもっぱらの見かただ。

 さて、日ましにうさんくささが増す「あんさんぶる」問題だが、あらたに重大な疑問がでてきた。〈桃井第2小学校の早期改築」に関する要望書〉という文書が、荻窪駅周辺7町内会会長の連名によって2014年7月26日付で杉並区に提出されているのだが(のちに一部取り下げ)、町内会関係者によればこの要望書は杉並区が作成し、町内会長を回覧して会長のハンコを集めた代物だったというのだ。
 
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 当時町内会長だった男性は、「文書が回覧されてきたので、校舎があたらしくなるならいいだろうとハンコをついた。区が作った文書だった。よく読むとあんさんぶる荻窪の財産交換(財務省への譲渡)に伴う話だったので、これはいけないと町内会にはかり、要望を撤回した」と話した。

 桃2小学校を建て替えてほしいと地元の要望があるかのように工作をしたとすれば、文字どおり「やらせ」である。「5つ星の区役所」どころではない。うそつきの区役所である。

 追って杉並区の見解を取材し、報告したい。

 不動産業者との「癒着」に関する質問の対応を役所におしつける田中良杉並区長の無責任


 取材として田中良杉並区長に出した質問状が本人の手にわたったかを確認するのに10日もかかった。しかも回答のメドは「わからない」。そんな奇妙な現象がおきている。区民に対する説明責任を果たそうという意識が日々薄くなっていることを象徴する出来事だ。

 さる13日、本誌記者は田中良氏にあてて、不動産会社武蔵商事社長で報酬審議会会長の宇田川紀通氏との「癒着疑惑」について質問状を出した。

「宇田川報酬審会長の不動産会社に杉並区の税金から年間2800万円が支払われていた」

「杉並区長の政治的支援者が7年にわたって報酬審会長に居続ける異常」
 質問の提出先は総務課(都筑公嗣課長)。受け取ったS課員は「区長は忙しいのでわたせるかどうかわからない」などと答えた。「区長にわたったら連絡してほしい」と筆者はS課員に伝え、S課員は了承した。

 ところが総務課から連絡はなかった。やむなく質問から10日がたった22日朝、 記者は総務課に電話をかけ、事情をただした。対応したS課員は「秘書課にわたした」と答えた。「いつ秘書課にわたしたのか」とただすと「それも含めて(質問への答えを)文書で回答する」などと言った。その回答も、いつのことになるのかはわからないという。

 あまりにも対応がふざけていないか、いつ秘書課にわたしたのかくらい答えられるだろう。そう批判したところ、S課員はようやく「14日に秘書課にわたした」と答えた。

 秘書課まで質問状がいったことは確認できた。しかし、さらにそこから先、区長自身の手に届いたかどうかはなおも不明だ。そこで確認するため、杉並区役所の代表電話を通じて秘書課に電話をかけた。交換手はしばらく保留にしたのちにこういった。

「秘書課はおつなぎできません。区政相談課におつなぎします」

 着信拒否である。相談課の職員に対して記者は、秘書課(林田信人課長)に聞こうとした内容をつたえ、あわせて「着信拒否の理由を秘書課に聞いてほしい」と「相談」した。ついでに、田中区長は説明責任を果たすべきではないか、と意見し、電話を切った。

 区政相談課の職員から折りかえし電話があったのは上のやりとりから数分後であった。「秘書課で対応するので電話を転送します」とのことであった。転送された電話に最初にでた秘書課の課員は、この通話が秘書課のほうから求めたものだったとの認識がなかったようで、「いま担当者が電話中なので折りかえしかけてもいいですか」と変な言い方をした。

 まもなく電話口に出た秘書課の男性O課員はこう説明した。

 「質問状は総務課から秘書課に、14日の夕方に伝わった。区長にも内容は伝えた」

 記者はたずねた。

 「それで、回答はいつもらえるのでしょうか」

 O秘書課員は答える。

 「わかりません」

 「わからないとは」

 「総務課で回答案をつくるので秘書課ではわかりません」

 奇妙な話ではないかと記者はおどろいた。質問は総務課だけで答えられる内容ではない。田中良氏個人の問題が含まれている。つまり――田中氏の政治資金パーティの発起人になっている宇田川紀通・武蔵商事社長という政治的支援者を、田中氏自身の権限をつかって報酬審議会委員に委嘱。さらに武蔵商事と区との間に不動産の賃借契約をむすび、年間2800万円を支払っている。報酬審は昨年11月、区長ら特別職の報酬・期末手当を引き上げるべきだという答申をだし、それをうけて引き上げの条例改正がなされた。――癒着・腐敗、そういうほか表現のしようがない問題である。

 区政の問題であることは当然だが、それだけではない。区とは関係がない田中氏個人、あるいは政治家田中良としての立場がからんでいる。公私をごちゃまぜにしているからこそ問題なのだ。

 それを総務課だけで答えるという。政治家田中氏にかかわるところも、総務課が税金をつかってかわりに答えてやるということらしい。その回答行為自体がけじめなき公私混同の発想ではないだろうか。

 「総務課で答えるというのは田中区長の指示ですか」
 
 O課員に記者はたずねた。

 「いえ・・」

 O秘書課員は口をにごした。

 「総務課で答えるということで田中区長は了承しているんですね」
 
 「はい」

 「区長の指示ということではないですか」

 「・・・」

 ともあれ、ここにきてようやく田中区長に質問が届いている事実を確認することができた。10日を要した。「区長は取材の質問もわたせないほど忙しいんですか」と記者はきいた。

 「出ていることが多いので、とくに1月は、新年会とか…」

 「しかし、質問をわたせないほどじゃないでしょう」

 「ええ、まあ…」

 ともあれ回答だ。うやむやにされてはたまらない。ふたたび総務課に電話をかける。”会議”で課長もほかの職員もいない。「1時くらいにかけてもらえますか」と対応した職員は言った。正午まで10分ほどあった。昼めし抜きで会議とはよほど忙しいらしい。もっとも総務課の答えは予想がつく。回答がいつできるか「わからない」だろう。

 かくして、区長と地元有力業者の癒着という区民にとって重大な関心事にかんして、区長の説明を現在もなおあてもなく待ちつづけることを余儀なくされている。

 ほんらいなら議会が追及すべき場面である。しかし、山田宏区政時代は野党の立場にあり、厳しい批判をしばしば展開していた非自公議員らは、民主党出身の田中区政(2期目は自民の支持を得た)になったとたん、まるで牙をぬかれたかのようにおとなしくなってしまった。自公や自公補完勢力の議員らも厳しい目でチェックするでもなく田中区長の言いなりになっている。あるいは区長のほうが自公の言いなりになっているのかもしれない。

 かくして大政翼賛状態のなか、田中区政の独裁化、密室化、無責任化が進んでいる。

追記(22日13時半)

 総務課にあらためて確認したところ対応したS課員は「現在調整しながら回答をつくっている。はっきりとはわからないが1-2週間はかかるだろう」と答えた。

 

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問題の質問状
 
ご質問

田中良杉並区長さま

前略 以下、取材として質問いたします。

① 武蔵商事株式会社、または同社代表取締役・宇多田川紀通氏、またはその親族に、田中区長を政治的に支援することを目的とした政治団体が主催する政治資金パーティのパーティ券を購入してもらったことはありますか。

② 武蔵商事株式会社社長・宇田川氏は、田中区長を政治的に支援することを目的とした政治団体が主催する政治資金パーティの発起人になったことがあります。また、武蔵商事と杉並区の間には、保育室用の不動産物件や駐輪場の賃貸借契約が交わされており、年間約2800万円の支払いがされている事実が確認されています。
 
 こういう区と利害関係をもち、かつ政治的に区長と密接な関係のある企業経営者が、区報酬等審議会の会長になり、昨年11月に、特別職職員や議員の報酬・給料・期末手当の引き上げを答申したことについて、宇田川氏を報酬審の委員に任命することは区政と一部業者との癒着であり、不適切ではないかとの批判が多数の区民によってなされています。

 つきましては、宇田川氏を報酬審委員に任命し、会長となった経緯、およびこの人選を不適切だとの批判にたいしてどうお考えになるのか、ご意見を聞かせてください。

以上

2016年1月13日
三宅勝久 ジャーナリスト

区営施設「あんさんぶる荻窪」譲渡めぐる重大疑問


 2004年に落成したばかりの区営複合施設「あんさんぶる荻窪」(杉並区荻窪、荻窪駅南側隣接、6階延べ床面積約6900平方メートル)の敷地・建物を財務省に譲り、対価として荻窪税務署(杉並区荻窪)の敷地をもらってそこに新築するという案が進んでいるが、各方面から「新しい施設を壊したうえに、多額の費用をかけて新築するのはおかしい」などと疑問と批判の声があがっている。

 この問題をめぐって重大な事実が発覚した。田中良区長が区長選で初当選したのは2010年7月だが、その5ヶ月後の同年12月3日付で、財務省にあてて「荻窪税務署の建替工事について(要望)」と題する区長名の要望書を出している。その中で、当時財務省が計画していた荻窪税務署の建替工事について、荻窪駅前周辺整備を行い「国税・都税・区税の行政機能の集約化」を図る予定があるとして、建替工事を「当分の間一時休止し」てほしい旨申し入れていたのだ。

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 この「要望」も「集約化」計画も、議会には説明されていなかった。区企画課に確認したところ、要望の文書はすでに廃棄して存在しないと回答した。また、要望の内容を確かめたところ「わからない」と答えた。区が財務省に申し入れた「要望」の内容がわからないというのだ。

 税務署建替えをめぐる財務省と杉並区の協議はまだつづいている。にもかかわらず、協議のきっかけである区側からの申し入れ内容がわからないというのはにわかに信じがたい。

 識者はこうみる。

 ――もともと駅前に官庁ビルを建てて、荻窪税務署に入居してもらう計画を区長周辺で練り、財務省側に打診した。しかし計画がうまくいかなかった。やむを得ず、まだ築10年しかたっていない「あんさんぶる荻窪」を財務省に提供するという強引な案を思いつき、強行しようとしているのではないか。

 あんさんぶる荻窪の建設費は約28億円。これを荻窪税務署の土地と交換することにより、区側があらたに負担する費用は、「あんさんぶる荻窪」の再建費用約30億円以上といわわれる。また「あんさんぶる」内の学童保育施設を桃井第2小学校に移設することに伴う同校校舎の建替え費用30億円の、すくなくとも60億円にのぼるとみられる。

 本日(20日)付で、要望書ならびにその内容がわかるもの、決済した職員がわかるもの、要望をうけた財務省との交渉内容がわかるもの、廃棄したとすれば、廃棄の時期がわかるもの――などを区に対して情報公開請求した。

「“ 日本軍が朝鮮女性等に 強制的 ” に売春行為をさせた事実などない」吉田あい杉並区議発言を検証する④


「“ 日本軍が朝鮮女性等に 強制的 ” に売春行為をさせた事実などない事は、今や周知の事実です」
 
 吉田あい杉並区議のブログ発言について、検証をつづけたい。http://yoshida-ai.com/index.php?itemid=992
 吉田氏が根拠のひとつとしてあげる原審山口地裁下関支部の裁判について、一審判決の事実認定を引き続き紹介する。なお2審広島高裁判決、ならびに最高裁判決については、1審判決の検証が終わったのちにみていく。
 今回紹介するのは、原告李順徳(イ・スントク)氏の被害体験である。
山口地裁下関支部平4年(ワ)349号・同5年(ワ)373号・同6年(ワ)51号事件1998年4月27日判決の事実認定部分より引用。
===
2 慰安婦原告らの被害事実

 反証はまったくないものの、高齢のためか、慰安婦原告らの陳述書やその本人尋問の結果によっても、同原告らが慰安婦とされた経緯や慰安所の実態等については、なお明瞭かつ詳細な事実の確定が殆ど不
可能な証拠状態にあるため、ここでは、ひとまず証拠の内容を摘記した上、末尾(別紙1=筆者注)においてその証拠価値を吟味し、確実と思われる事実を認定することとする。
(中略)
原告朴李順徳の陳述と供述

(三)原告李順徳(イ・スントク)の陳述と供述

(1)原告李順徳は、陰暦1918年、朝鮮全羅北道裡郡慕懸で生まれた。同女は、父母が出稼ぎに出ているため、家事一切を切り回していた。

 同女は、昭和12年(1937年)の春、満17、18歳のろ、夕食の準備をするため畑の畦道で蓬を摘んでいたところ、40歳くらいの朝鮮人の男から、

「そんなことをしているよりも自分についてくれば、履き物もやるし着物もやる。腹一杯食べられるところに連
れて行ってやる。」

 と声をかけられた。同女は、家が貧しく満足な履き物もなく、空腹を癒すことに精一杯の生活を送っていたため、その男の誘いに応じてついて行くことに決めた。同女が「父母に挨拶してから行きたい。」と懇請したにもかかわらず、その男は、「時間がない。急ごう。」と言って、同女の手を引っ張って行った。同女は、男
から手を取られて引っ張られたことに驚き、恐ろしく恥ずかしくて、そのまま泣きながら連れて行かれた。同女は、その途中、その男の前を歩かされ、約1時間後に裡里邑の旅館に連れて行かれた。同旅館の部屋は、外から鍵がかけられ、同女の同じような年齢の娘たちが14,5人おり、いずれもどこに何のために連れて行かれるのか分からず泣いていた。

 翌日、カーキ色の服を着てゲートルを巻き腰にサーベルをぶら下げた旧日本軍の軍人3人が、同女らを裡里駅から列車に乗せて3日かけて上海駅まで連れて行った。上海駅に着いた後、同女らは、幌のないトラックの荷台に乗せられ、右軍人のうち1人は運転席の横に座り、残りの2人は荷台に乗った。右トラックの運転手も旧日本軍の軍人であった。同女らは、約3時間くらいトラックに乗せられ、旧日本陸軍の駐屯地に連れて行かれた。

(2)同女らは、陸軍駐屯地の大きな軍用テントの近くに転々と置かれた小屋に1人ずつ入れられた。その小屋は、むしろの壁に萩の木で編んで作った傾斜のない屋根が葺かれ、2、3畳の広さの床は枯れ葉
を敷いた上にござを敷き、その上に国防色の毛布を敷いた粗末な造りであった。そのため、雨が降ると雨水がたくさん漏れてきた。同女は、軍服と同じ色の上着とモンペを支給され、最初の2日間に血液検査と
「606号」という注射を打たれた。その「606号」という注射は、その後も2週間に1回の割合で打たれた。

(3)陸軍駐屯地に入れられて4日目に、星が3個ついた軍服を着たミヤザキという年輩の将校が小屋に入ってきて、同女に対して執拗に性交を迫り、これに抵抗できなくなった同女を3日間にわたり毎晩犯
した。その後、多くの軍人が小屋の前に行列をつくり、次から次へと同女を強姦し、昭和20年(1945年)8月の解放のときまで約8年間、毎日朝9時から、平日は8、9人、日曜日は17、8人の軍人が、小屋の中で同女を強姦し続けた。

(4)同女は、昭和20年(1945年)6、7月ころ、ある兵隊から、「自分と約束しているのになぜ他の男と寝たのか。」と責め立てられ、軍靴で腹を蹴り上げられたり、刀で背中を切りつけられたりしたこともあった。そのときの傷痕は現在でも同女の体に遺っており、今でも痛みがあり、特に雨の降る日などは胸がうずき、めまいなどのために歩くことさえままならない症状に悩まされている。同女は、右の暴行による傷の治療を1週間受けただけで、また軍人との性交渉を強要された。

(5)昭和20年(1945年)の日本の敗戦後、陸軍駐屯地から日本人の軍人はいなくなり、残された同女は、「解放だ。帰ろう。」と叫びながら集ってきた朝鮮人とともに、屋根のない貨車に乗って何日もかけてようやく家に帰ることができた。同女が家に帰ると両親は既に亡くなっており、弟が叔母の家に身を寄せていた。両親は、同女を捜し回り、絶望して亡くなってしまっていた。同女は、弟にも、後に2度結婚した夫に対しても、自己の被害事実を隠し通してきた。同女は、2度の結婚生活の間、子供ができず、婦人科の診察を受けて初めて自己の子宮が変形しており、子供ができない体になっていることを知った。

別紙

3 原告李順徳の被害事実

1 原告李順徳は、陰暦1918年、朝鮮全羅北道裡里郡慕懸(モヒョン)で生まれた。同原告は、父母が出稼ぎに出ているため、家事一切を切り回していた。同原告は、1937年の春、満17、8歳のころ、夕食の準備をするため畑のあぜ道で蓬を摘んでいたところ、40歳くらいの朝鮮人の男から

「そんな事をしているよりも、自分についてくれば、履物もやるし着物もやる。腹一杯食べられるところに連れて行ってやる。」

 と誘われた。同原告は、家が貧しく満足な履物もなく、空腹を癒すことに精一杯の生活を送っていたため、その男の誘いに応じてついていくことに決めた。同原告が父母に挨拶してから行きたいと懇請したにもかかわらず、その男は時間がない、急ごうと言って同原告の手を取って引っ張っていった。同原告は、男から手を取られて引っ張られて行ったことに驚き、恐ろしくて、恥ずかしくて、そのまま泣きながら連れて行かれた。

 同原告は、途中、その男の前を歩かされ、約1時間後に裡里(イーリー)邑の旅館に連れて行かれた。同旅館の部屋は、外から鍵がかけられ、同原告と同じような年齢の娘たちが一四、五人おり、いずれもどこに何のために連れて行かれるのか分からず泣いていた。

 翌日、カーキ色の服を着てゲートルを巻き腰にサーベルをぶらさげた旧日本軍の軍人3人が、同原告ら娘たちを裡里駅から列車に乗せて3日かけて上海駅まで連れて行った。上海駅に着いた後、同原告ら娘たちは、幌のないトラックの荷台に乗せられ、右軍人のうち1人は運転席の横に座り、残り2人は荷台に乗った。同トラックの運転手も旧日本軍の軍人であった。同原告ら娘たちは、約3時間位トラックに乗せられ、旧日本陸軍の駐屯地(以下、「陸軍駐屯地」という。)に連れて行かれた。

2 同原告ら娘たちは、陸軍駐屯地の大きな軍用テントの近くに転々と置かれた小屋に1人ずつ入れられた。その小屋は、甲第3号証(略)の図のとおり、筵のようなもので壁が覆われ、萩の木を編んで作った傾斜のない屋根が葺かれ、2、3畳の広さの床は枯れ葉を敷いた上にござを敷いて、その上に国防色の毛布を敷いた粗末な造りであったため、雨水が漏れたり雪が降り込んだりして不生極まりないものであった。

 同原告は、軍服と同じ色の上着とモンペを支給され、最初の2日間に血液検査と「606号」という注射を打たれた。「606号」という注射は、その後も2週間に1回の割合で行われた。

 陸軍駐屯地に連れて来られて4日目、星が3個ついた軍服を着たミヤザキという名の年配の将校が小屋に入ってきて、同原告に対して執拗に性交渉を迫り、これに抗することができなくなった同原告を3日間にわたり毎晩犯した。同原告は処女であった。その後、多くの軍人が最初は暴力で同原告の反抗を抑圧して強姦し、抵抗することを諦めた同原告を引き続き、1945年8月の解放の時まで約8年間、毎日朝9時から、平日は8、9人、日曜日は、17、8人の軍人が、小屋の中で同原告を強姦し続けた。

 1945年6、月ころ、ある兵隊が自分と約束しているのに何故他の男と寝たのかと同原告を責め立て、軍靴で同原告の腹を蹴り上げ、刀で背中を斬りつけた。その傷跡は甲第四号証のとおり、同原告の体に克明に残っており、同原告は、今現在も痛みが残り、特に雨が降ろうかという日や雨の降る日などは、胸や腹がうずき、めまい等のために歩くことさえままならない症状に悩まされている。同原告は、右暴行による傷の治療を1週間受けただけで、軍人との性交渉を強要され続けた。

3 同原告を連行した者が旧日本軍の軍人であること、同原告が収容された小屋が陸軍駐屯地に近接した施設であること、定期的に駐屯地内で「606号」という注射を打たれたこと、小屋を兵隊が常時監視
していたこと、軍人のみを相手にしていたこと等に照らせば、同原告は、旧日本軍の強制により連行され、約八年間、民間人の関与が全くない中、旧日本軍により監禁され強姦され続けたものである。

4 1945年の日本の敗戦すなわち解放後、陸軍駐屯地から日本人の軍人はいなくなり、残された同原告は、「解放だ。帰ろう。」と集まった朝鮮人らとともに、屋根のない貨車に乗って何日もかけてようやく家に帰ることができた。同原告が家に帰ると既に両親は亡くなっており、弟が叔母の家に身を寄せていた。両親は、同原告を捜し回り、絶望して亡くなってしまっていた。同原告は、弟にも、後に2度結婚したそれぞれの夫にも、自分の被害事実を隠し通してきた。2度の結婚生活の間、子どもができず、婦人科の診察を受けて初めて、自分の子宮が変形して子どもができない体になってしまっていたことを知った。同原告は、旧日本軍によって純朴な娘の一生を台無しにされたこと及び日本政府が同原告に対して国家補償を拒否してきたことについて、憤怒の念を強めている。

 しかも、同原告の被害事実は、一貫して旧日本軍の強制によるものであり、いわゆる公娼制度といえるような事実は全く見当たらない。同原告が新聞を読む能力がなく、また、テレビ報道を理解できないこ
ととしても、同原告が凛としてその被害事実を公にしているにもかかわらず、同原告らを含む従軍慰安婦が公娼であったと断ずる発言を公にすることが、同原告の名誉を侵害することは明らかである。

杉並第一小学校の耐震性に問題なし 「解体―複合ビル化」の理由に疑問

 杉並第一小学校(東京都杉並区阿佐ヶ谷北)を取り壊し、地域区民センターなど他施設との複合施設としてビル化する計画をめぐり、区が計画の理由として説明している「老朽化」に疑問があることがわかった。

 筆者の取材に対し、区が1月8日で回答してきた内容によれば、現在の杉一小学校施設は、2010、11年度の2年間をかけて耐震補強工事を実施しており、その結果、耐震性には問題がないとの診断がなされている。

 工事は9660万円をかけて実施、耐震ブレース設置、柱補強、鉄筋コンクリート耐力壁設置、既存鉄筋コンクリート耐力壁増し打ち、といった措置を行い、耐震性能を確保(IS値=0・7)したという。

 耐震上問題がなく、約1億円もかけて補修したばかりの施設をなぜ取り壊し、建設期間が3年という長い時間をかけて、ビル型の複合施設にしなければならないのか。区は、杉一小学校が昭和30-40年代につくられ、50年をすぎていることから、コンクリートの耐用年数を考えて築65年までに建て替えるべきだと判断したという。

 しかしそうだとしてもなお疑問は残る。単に建て替えるだけなら工費も安く、工期も短くてすむだろうが、区の計画する複合施設とは、①地上4階で運動場を屋上に設置、②地上7階で運動場を地面に確保――といういずれの案にしても大きな建物である。教育環境が大きく変わるうえ、工期が3年もかかる。

 なぜ複合なのかという質問については、学校整備課は「コストが安くなる」などと口頭で回答した。では、いったい複合施設の建設費をどのくらいとみているのかと尋ねたところ、「設計してみないとわからない」というのだ。

 基本のアイデアがわからないのに設計を発注できるはずがない。建設コストなど最初から考慮しておらず、ただ大きなハコモノをつくることを当初から考え、拙速に計画がつくられた可能性は否定できない。

 あるいは、地域区民センターの敷地(東京電力から月額512万円で借用)や産業商工会館(耐震性に問題があり、取り壊す予定)の区有地をつかって、なんらかの”ビジネス”をたくらんでいることも考えられる。

 いずれにしても、田中良区長による区民おきざりの強引な区政運営は、とても「5つ星の役所」の名にふさわしいとは思えない。区議会も体制翼賛的になっており、首長の独走に対して十分な監視機能を果たしていないようだ。

 なお、杉一小「複合施設」問題をめぐっては、以下の日程で区による説明会が予定されている。

 1/23(土)15時30分~ 杉一小保護者説明会 杉一小体育館
 1/27(水)19時00分~ 杉一小改築・複合化説明会(主に地域住民、施設利用者対象) 杉一小体育館

 

「“ 日本軍が朝鮮女性等に 強制的 ” に売春行為をさせた事実などない」吉田あい杉並区議発言を検証する③


「“ 日本軍が朝鮮女性等に 強制的 ” に売春行為をさせた事実などない事は、今や周知の事実です」
 
 吉田あい杉並区議はブログ上でそう発言している。http://yoshida-ai.com/index.php?itemid=992

 吉田氏が根拠のひとつとしてあげる原審山口地裁下関支部の裁判について、一審判決の事実認定を引き続き紹介する。なお2審広島高裁判決、ならびに最高裁判決については、1審判決の検証が終わったのちにみていきたい。

 今回紹介するのは、原告朴頭理(パク・トゥリ、故人)氏の被害体験である。

山口地裁下関支部平4年(ワ)349号・同5年(ワ)373号・同6年(ワ)51号事件1998年4月27日判決の事実認定部分より引用。

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2 慰安婦原告らの被害事実

 反証はまったくないものの、高齢のためか、慰安婦原告らの陳述書やその本人尋問の結果によっても、同原告らが慰安婦とされた経緯や慰安所の実態等については、なお明瞭かつ詳細な事実の確定が殆ど不
可能な証拠状態にあるため、ここでは、ひとまず証拠の内容を摘記した上、末尾(別紙1=筆者注)においてその証拠価値を吟味し、確実と思われる事実を認定することとする。

(中略)

原告朴頭理の陳述と供述

(1) 原告朴頭理(パク=トゥリ、故人)は、陰暦1924年(大正13年)、現韓国慶尚南道三浪津郡で生まれた。同女は、七人兄弟の一番上に生まれ、弟3人と妹3人がおり、家の暮らしぶりは非常に貧しかったため、自分が働いて金を稼いで家に入れなければならないと思っていた。同女が数えで17歳のころ、3人の男が娘たちを集めるために、同女らの家族が住んでいた村にやってきた。同女の家にも、50歳以上と思われる朝鮮語と日本語を話す男が訪ねてきて、同女に対し、「日本の工場で金になる仕事がある。」と話しかけてきた。同女は、日本の工場に行って働き、一儲けして父母を養いながら嫁に行きたいと考え、その男の話を信用して日本の工場へ働きに行くことに決めた。同女は、父母に対し、「日本で稼いで家族に仕送りがしたい。」と申し出たところ、父母はこれを疑うこともなく反対もしなかった。その後、同女を勧誘した男が、同女と10人くらいの村の娘らを一緒に釜山に連れて行った。同女は、釜山から大きな船に乗せられて台湾に連れて行かれた。

(2)船酔いがひどかった同女は、病院に入院した後、慰安所に連れて行かれた。同女を勧誘した男が慰安所の主人であった。主人は、同女に対し、「客をとれ。」と述べ、同女は、「それは話が違う。」と逃げようと考えたが、言葉も道も分からず、頼れる人も知っている人もいないため逃げることはできなかった。同女は、男と接したのはその時が初めてであり、乱暴な暴行を受け、軍人たちから強姦された。日本人の軍人が客の多数を占めていたので、慰安所において朝鮮語を使うことは暴力によって禁止されており、同女の呼び名も「フジコ」であった。

(3)同女は、1日に10人前後の男の相手をさせられ、性交渉を強要された。休みは1か月に1日だけであり、自由な外出もできなかった。慰安所での食事は粗末であり、食べたい物を買う金もなく、あまりの空腹のため慰安所の近くのバナナ園のバナナを取って食べ、そのことでバナナ園の主からも、慰安所の主人からもひどく叩かれたことがある。同女は、台湾にいた5年間、慰安所の主人から金をもらったことはなく、位の高い軍人の客からもらうチップも、慰安婦として身綺麗にしておくための化粧品を買える程度のものだった。国民学校に通っていた弟が「文房具を買ってほしい。」と同女宛てに書いた手紙が届いた際、同女は金が1銭もなく、泣いていたため、他の慰安婦の娘たちが同情して募金をしてくれ、その金で文房具を買って弟に送ってやったこともあった。同女は、慰安婦として長年性交渉を強いられたことにより、右の太股の下がパンパンに腫れ上がるという病気に罹り、その手術痕が現在でも遺っている。

(4)同女は、敗戦後、慰安所の管理人であった朝鮮人の男に連れられて船で故郷に帰った。同女は、父母に対し、「台湾にある日本の工場で働いていたが給与はもらえなかった。」と虚偽の事実を述べた。その後、同女は、結婚し子供も生まれたが、台湾の慰安所での生活のことは隠し通してきた。同女は、本件訴訟提起により慰安婦であったことを実名にて初めて公表した。



別紙1

原告朴頭理の被害事実

1 原告朴頭理は、陰暦1924年、現在の韓国慶尚南道三浪津(サムナンチン)郡にて、父丙松夫と母戊春子の間に生まれた。同原告は、7人兄弟の一番上に生まれ、弟3人と妹3人がおり、家の暮らしぶりは非常に貧しかったため、自分が働いてお金を稼いで家に入れなければならないと思っていた。同原告が数えで17歳のころ、道長の所でどこの家に娘がいるかを調べてきたという男たちが娘たちを集めるため、同原告ら家族が住んでいた村にやって来た。同原告の家にも、50歳以上と思われる朝鮮語と日本語を話す男が訪ねてきて、同原告に対し「日本の工場でお金になる仕事がある。」と勧誘した。同原告は、日本の工場へ行って働いて、一儲けして父母を養いながら嫁に行きたいと考え、その男の話を信用して日本の工場へ働きに行くことを決めた。同原告は、父母に日本で稼いで家族に仕送りがしたいと告げ、父母はこれを疑うこともなく反対もしなかった。
 
 その後、同原告を勧誘した男が、同原告と10人くらいの村の娘らを一緒に釜山へ連れて行った。同原告は、釜山から大きな船に乗せられ台湾に連れて行かれた。

2 船酔いがひどかった同原告は、病院に入院した後、慰安所に連れて行かれた。同原告を勧誘した男が慰安所の主人であった。主人は、同原告に対して、客を取れと言い、同原告は、それは話が違うと逃げようと考えたが、言葉も道も分からない、頼れる人も知っている人もないため、逃げることはできなかった。同原告は、男と接したのはその時が初めてであり、幾ら反抗しても、乱暴な暴行を受けたことにより、反抗を抑圧され、軍人たちとの性交渉を強要され、もって強姦された。
 
 慰安所の客は日本人の軍人が多数を占めていたので、同所にて朝鮮語を使うことは暴力によって禁止されており、同原告の呼び名も「フジコ」であった。同原告は1日10人前後の男の相手をさせられ、性交渉を強要されない休みの日は1ケ月に1日だけであり、自由な外出もできなかった。

 慰安所での食事は貧粗であって、食べたい物を買うお金もなく、あまりの空腹のため慰安所の近くのバナナ園のバナナを取って食べ、そのことでバナナ園の主からも慰安所の主人からもひどく叩かれたことがある。同原告は、台湾にいた5年間、慰安所の主人からお金をもらったことはなく、位の高い軍人のお客からもらうチップも、慰安婦として身綺麗にしておくための化粧品を買える程度のものだった。国民学校に通っていた弟が文房具を買って送って下さいと同原告に宛てた手紙が来た際、お金が1銭もなく泣いていた同原告を他の慰安婦をさせられていた娘たちが同情して募金したお金で文房具を買って弟に送ったことがあった。

同原告は、性交渉により右側の太股の下の方がパンパンに腫れ上がるという病気に罹り、その手術の痕が残っている。

3 確かに、同原告が慰安婦をさせられた慰安所の設置管理が旧日本軍によって行われたものかは明らかでない。しかし、同原告の供述によれば、台湾での5年間、旧日本軍の部隊が移動するのに合わせて、慰安婦らもトラックに乗せられて移動させられたこと、慰安婦の性交渉の相手のほとんどが日本人の軍人であったことから、いわゆる部隊お抱えの私設慰安所であったと考えられる。このような私設慰安所が存在したことは、甲27号証の123頁乃至126頁に記述されている。同記述によれば、部隊の宿舎の近くで、部隊が軍からの公認を受けずに慰安所を女将に経営させ、同所を連隊命令を受けた兵士が監視していたのであり、軍もかかる私設慰安所の解散を部隊に命ずることなく放任していたことが窺える。

4 同原告は、日本の敗戦すなわち解放後、当時の慰安所の管理人であった朝鮮人の男に連れられて船で故郷に帰った。同原告は、父母に対し、台湾にある日本の工場で働いてきたがお金はもらえなかったと告げた。

 その後、同原告は、結婚し子どもも生れれたが、台湾での被害事実は隠し通してきた。同原告が1992年の本件訴訟提起によりその被害事実を実名にて初めて公にしたその3年後、1995年に同原告本人尋問が行われた。

 同原告は、被告が同人の被害事実に対して何ら国家賠償も国家補償もしないこと、被告は同人が死して黙するのを待っているのではないかという強い憤りの念を持っている。現在まで何ら被告が法的責任を認めた上での謝罪と賠償・補償がなされない故に、同原告の精神的苦痛は増大するばかりである。

つづく