「ポスティングバイト自死事件」杉並に遺族支援の輪広がる

 マンガ家を夢見て九州から東京にでてきてわずか2ヶ月後に自殺で他界した19歳の青年の遺族をささえようと、杉並の住民たちが支援に動きだした。事件は2012年12月に発生。自殺する直前、青年は中野区に本社があるポスティング(チラシ配り)のアルバイト先から「注意」を受けており、それが自殺の一因だとして遺族が同社を相手どって損害賠償を求める裁判を起こしている。

(関連記事)
http://www.mynewsjapan.com/reports/2225

 杉並との縁は、遺族の代理人を務めている杉浦ひとみ弁護士だ。杉浦弁護士は、すぎなみオンブズの相談にのったり住民訴訟の代理人弁護士をするなど杉並の市民運動と縁がある。選挙管理委員の報酬をめぐる住民訴訟でも控訴審代理人をつとめ、みごとに勝訴したという実績もある。

 きっかけは杉浦弁護士からの支援の呼びかけだった。オンブズのメンバーらがこの呼びかけに応じて傍聴にかけつけた。そして、遺族の悲痛な思いに接して心を動かされた。亡くなった青年は中央線沿線に下宿しており、また杉並区内でチラシ配りをしていたことなどから「縁がある。有志で支援活動をやろう」とまとまった。精神的な支えになるのをはじめ、情報収集やカンパによる経済的支援をめざす。

 2月12日午前10時15分から東京地裁709号法廷で口頭弁論がある。また、同日午前11時半から参議院議員会館(B104号室)で支援集会を開く。

 詳しくは下記のとおり。
 
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 「ポスティングバイト自死事件」支援の集いのご案内
―マンガ家をめざして東京にきたばかりの19歳の青年はなぜ命を絶ったのかー

◎ 第3回口頭弁論 平成27年(ワ)27903号事件 
 2月12日午前10時15分
 東京地裁709号法廷(地下鉄霞が関駅)

◎ 支援集会
 同日午前11時30分より(午後1時ごろ終了予定)
参議院議員会館 B104
 (地下鉄永田町駅または国会議事堂前駅、東京地裁から徒歩15分)

 19才の青年・松原篤也さんは、高校を卒業したのちの2012年11月、実家の九州からマンガ家 を志して東京にでてきました。1ヶ月後、生活のためにポスティングのアルバイトを始めましたが、4日目に「不正」があったとして監督担当に見とがめられ、呼び出されて叱責を受けました。そしてそれから数時間後、「遺書」を残して自殺してしまいました。
 このアルバイト先で受けた叱責が篤也さんを自殺に追い詰めた可能性がたかいと考えられたことから、遺族はポスティング大手「K社」を相手どり損害賠償請求訴訟を起こしました。会社は「ひどいことはしていない」として全面的に争う姿勢ですが、同じ会社で働いたことのある別の青年は、叱責や暴力を受け、恐ろしくて郷里に逃げ帰ったと証言しており、実態解明の余地が多分にあります。
 夢を抱いて旅立ったばかりの篤也さんを亡くしたご遺族の悲嘆は想像にあまりあります。ささやかなりとも支援できないかと、東京にいる有志で集会を催すことにいたしました。事件の報告とあわせて、みじかなポスティング業界の実態や、いわゆる「ブラックバイト」についても考えていきたいと思います。お誘い合わせのうえご参加ください。

集会予定
1 事件報告 代理人弁護士
2 原告(両親)のお話
3 その他討論・自由意見交換
4 支援者より

問い合わせ先:東京アドヴォカシー法律事務所(03-3816-2061)

田中区長→財務省の「荻窪税務署建て替え凍結要望書」は「廃棄ずみ」と正式回答

 2010年12月に田中区長から財務省に対し、同省が当時計画していた荻窪税務署の建て替えを凍結するよう要望していた問題で、杉並区は8日、本誌記者の情報公開請求に対し、すでに要望書は「廃棄した」として文書不存在の決定をだした。

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 不開示決定通知によれば、問題の要望書は「22杉並第47820」の文書番号を付された「荻窪税務署の建替工事について」というもの。文書は不存在により不開示決定をしたが、「廃棄した場合は廃棄したことがわかる文書」との公開請求に対しては文書リストを公開した。それによれば、「22杉並第47820」文書は3年保存との扱いで、2014年3月31日が廃棄予定日であると記載されている。

 また「要望書」を起案した職員の氏名、役職がわかる文書、という形でも情報公開請求をおこなったが、これも「廃棄済み」という理由で不開示となった。

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(一番上の段を参照)

 しかし、廃棄予定日以降、じっさいに廃棄がなされたかどうかは依然、不明である。財務省と財産交換の交渉が現在もつづいていることを考えれば、「交換」の話がでた最初のきっかけである「要望書」を、杉並区が廃棄したというのは不自然だ。

 荻窪駅前再開発を計画していたところ、それが頓挫し、とりつくろいとして出てきたのが「財産移転」案ではないかという見方があるが、杉並区みずから作成した「要望文書」が存在せず、その内容も「わからない」というあり得ない態度をみれば、すくなくとも杉並区が「要望」した事実を意図的に隠そうとしていることはまちがいない。

  

「桃2小建て替え要望書」やらせ疑惑続報/企画課長ら同席で元国会議員の要望聞く


 2014年7月27日付で荻窪周辺の町内会長7人の連名によって杉並区に提出された「桃2小早期建て替え」を求める要望書を杉並区区自身がつくっていた、いわゆる「やらせ要望書」問題で、杉並区企画課は本誌記者の取材に対して、「地元から要望書の作成依頼があったものをワープロでつくっただけだ」と説明した。しかし、区が相談を受けたのは、7町内会のうち元国会議員の1人だけであり、残りの6人とは話をしていない事実もあきらかにした。

 既報
「桃2小早期建て替え」やらせ要望書に元国会議員関与か

「桃2小学校を建て替えてほしい」――地元町内会の「要望書」は杉並区の“やらせ”だった?

 有力者の要望をうけ、意思が不明確な町内会長の氏名まで、本人や各町内会に無断で区側が「要望書案」に書き込んだ可能性がたかい。

 企画課職員が5日までに回答したところでは、元民社党国会議員で荻窪地域の連合町内会長である藤原哲太郎氏から7月上旬、「要望書をだしたい」との相談があり、企画課長ら職員約6ー7名が同席して区庁舎内で面会した。藤原氏から文書の提示はなく、口頭で説明しただけだった。職員はメモをとった。そのご、区側が要望書を作成して藤原氏に渡した。要望書に記載した「要望者」は藤原氏をふくめて7町内会長で、肩書だけでなく氏名まで区は要望書のなかに書き込んだ。ーーという。

 また、藤原氏から聞き取った内容がわかるメモが保管されているかどうかをたずねたが、現在のところ明答は得られていない。

 7町内会長のひとりは、回覧のように要望書がまわってきたために、深く考えずにハンコをついたが、あとでこれは軽々しく同意できないと考えなおし、町内会にはかったうえで同意を取り消している。同様に同意を取り消した町内会長がもうひとりいる。

 桃2小の校舎は耐久性などには問題はないものの、区営施設あんさんぶる荻窪を荻窪税務署と交換するという強引な計画にともなって全面建て替え計画が浮上している。区の計画によれば、築わずか10年の「あんさんぶる」を荻窪税務署(建物は老朽化)と交換。税務署跡地に約30億円をかけて再建する。さらに学童クラブ用の場所を別途確保する必要が生じるため、桃2小学校を約30億円をかけて建て替える。

 荻窪税務署跡地には老人施設をつくる計画もあり、これこそが今回の計画の最大の理由だと区は説明する。しかし「あんさんぶる」を現状で使いつづけたうえで荻窪税務署を財務省が独自に建て替る、隣接する公務員住宅跡地を国から安価で借りて老人施設をつくる、ということも可能ではないかといわれており、60億円もかけて玉突きのように建物を作り続ける計画につよい疑問の声があがっている。

杉並区非常勤行政委員の月額報酬「死亡時満額支給条項」を撤廃へ/住民訴訟での敗訴確信か

 存命のまま月の途中で就任・退任した場合は月額を日割りで支給するという規定になっているにもかかわらず、死亡したときだけは死亡日のいかんにかかわらず月額を満額で払う――選挙管理委員など非常勤行政委員報酬のこういう支給方法を定めた条例はおかしいとして一部差し止めを求めた住民訴訟(原告は本誌記者の三宅勝久)の判決が、今月26日午後1時25分より東京地裁803号法廷で言いわたされる。

 被告は杉並区長ら区幹部5名。違法性はないとして全面的に争ってきたが、記者の観測では杉並区が敗訴する可能性は小さくない。敗訴(住民側勝訴)すれば画期的な判例となり、全国の同様の条例をもつ自治体に影響を及ぼすのは必至だ。

 この注目の判決を20日ほどのちに控え、杉並区長みずから「死亡時満額支給」条項を撤廃する条例改正案を2月10日に開会する定例区議会に上程することがわかった。

http://www.city.suginami.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/019/105/gikaiteian280115.pdf

 改正案は、従来「死亡したときはその日の属する月の末日まで支給する」となっていたところが、「…死亡等によりその職を離れたときはその日まで…」とあらためられている。

 住民監査請求を却下した杉並区監査委員の判断が誤りだったのをはじめ、その後の訴訟で「適法だ」などと主張しつづけた杉並区長の判断もまた誤りであったことを被告区長自身が認めたことになる。もはや敗訴は避けられないとの判断と思われる。

 もっと早く条例改正をしていれば訴訟をする必要はなかった。訴訟後でも早期に改正していれば、原告は訴訟を取り下げざるをえなかった。

 だが、今回の条例改正は、可決するとしても判決が確定したのちとなる。本会議で採決されるのは最終日の3月16日(予定)。2月26日の判決が確定するのは2週間後の3月はじめである。
 
 住民勝訴判決であれば、この判決によって東京都をはじめほかの自治体でも同様の条例改正がなされるであろう。そういう意味では、条例改正の時期を判決で負けるまで引っ張ってきた杉並区の功績は大きい。
 
 一方、半年間病気で欠勤した選挙管理委員(元自民党区議)に対して、月額24万2000円の報酬を払い続けたことの是非を争点とした住民訴訟は、その違法性を認めた判決がすでに確定している。これを受けた条例改正案も上程されるみとおしだ。改正案によれば以下の項が新設されている。

 月額報酬を受ける教育長職務代理者等が月の初日(月の中途においてその職に就いたときにあっては、その職に就いた日)からその月の末日(月の中途においてその職を離れたときにあってはは、その職を離れた日)までの間にわたりその職責を果たすことができないと認められるときは、その月分の報酬を支給しない。

 日額と月額の併用を導入するのがもっとも合理的だと訴訟の議論をつうじて記者は考えてきた。公明党区議ら議員にもそのむね説明を行ったが、条例案にはいっさい反映されることはなかった。日割りを導入すると非常勤行政委員の収入額が減少するため、それをきらった可能性がたかい。非常勤行政委員は区議会議員や元議員の天下りポストにもなっている。

あんさんぶる荻窪と税務署の「財産交換」問題で密室諮問会議


 建築費約30億円をかけて2006年に落成したばかりの区営施設「あんさんぶる荻窪」(杉並区荻窪、地上6階)を財務省荻窪税務署の土地と交換し、あらたに約30億円をかけて「あんさんぶる」と同様の施設を建設、さらに老人施設(民間)をつくるという区の奇妙な構想に批判と疑問が噴出している問題で、杉並区長の諮問機関「杉並区財産価格審議会」が1月19日に開かれ、1回の審議によって、交換する2ヶ所の不動産の価格が、それぞれ「適正な価格である」という交換を認めるような内容の答申をだしていたことがわかった。

審議会

 経理課に対して本誌記者が2日、取材して確認した。

 財産交換をめぐっては双方の財産価値の釣り合いがとれているのかといった疑問の声がある。審議会は区長の諮問機関とされているが、9人のうち4人は区の職員で構成されており「自作自演」の匂いもただよっており、こんごあらたな問題に発展することは必至だ。

 諮問会議は非公開で開催された。条例でその旨定めているという。経理課は当初、答申についても「非公開」だと説明していたが、条例は「会議」についてのみ非公開とあるだけで、答申を非公開にできる根拠はない。この点をただしたところ、「情報公開請求の手続きをとってほしい」と態度を軟化させた。そこでただちに情報公開請求の手続きをとったが、「決定の手続きが必要」などとして即日の答申書提供をしぶった。

「3月議会開会直前でもある。諮問会議の答申をすぐにださないというのはあまりにもおかしい。区民への説明責任を負う行政の立場がわかっていないのではないか」
 
 そう強く抗議したところ、ようやく答申書の写しが即日で開示された。A4版1枚のごく簡単な内容だ。だが、これだけでは何をどう答申したのか意味がわからない。やむなく、区長から審議会に対して意見をもとめた際の「諮問書」の開示も求めた。しかし、経理課はこれを出すことを渋った。2日午後5時現在、入手できていない。

 杉並区が密室行政の体質を強めていることがよくわかる。

 財産価格等審議会の構成員はつぎのとおり。

 ・宇賀神雅彦副区長(会長)
 ・川原口宏之(公明党区議)
 ・浅井くにお(自民党区議)
 ・坂野正和(みずほ銀行荻窪支店長)
 ・鈴木秀章(東京都杉並都税事務所長)
 ・宮嶋三世(東京都宅地建物取引業協会杉並支部長)
 ・白垣学(政策経営部長)
 ・南雲芳幸(会計管理室長)
 ・渡辺幸一(都市整備部長)

 区長の諮問機関とはいえ、宇賀神副区長をはじめ9委員のうち4人が区の幹部職員がしめており、独立性には疑問がある。

 なお、田中区長の政治団体が主催する政治資金パーティの発起人・宇田川紀通・武蔵商事社長が杉並区特別職報酬等審議会の会長を努めている問題や、武蔵商事と杉並区の間でマンションや自転車駐輪場の賃貸借契約が結ばれ、年間2800万円を杉並区が払っている問題について、さる1月13日、総務課を通じて田中区長に書面で質問を行ったが、およそ20日が過ぎた2日現在も回答はなされていない。

「杉並区長の政治的支援者が7年にわたって報酬審会長に居続ける異常」

 秘書室によれば総務課から回答するとのことだが、記者が2日に問い合わせたところ「来週はじめには回答できると思う」などと答えた。しんぼうづよく待ち続けることにしたい。
 

「“ 日本軍が朝鮮女性等に 強制的 ” に売春行為をさせた事実などない」吉田あい杉並区議発言を検証する⑤


「“ 日本軍が朝鮮女性等に 強制的 ” に売春行為をさせた事実などない事は、今や周知の事実です」
 
 吉田あい杉並区議のブログ発言について、ひきつづき検証をおこないたい。http://yoshida-ai.com/index.php?itemid=992
 吉田氏が上記発言の根拠のひとつとしてあげる原審山口地裁下関支部の裁判について、一審判決の事実認定を引き続き紹介する。なお2審広島高裁判決、ならびに最高裁判決については、1審判決の検証が終わったのちにみていく。
 前回までに元「慰安婦」で原告3人の体験部分を紹介した。今回は、裁判所の事実認定のうち大状況に関する部分だ。なお別紙1は原告の主張をまとめたもので、判決に添付されている。被告国の言い分をまとめた別紙2もあるが、ここに事実に関する内容はほとんどない。
 山口地裁下関支部平4年(ワ)349号・同5年(ワ)373号・同6年(ワ)51号事件1998年4月27日判決の事実認定部分より引用。

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裁判所の認定事実

1従軍慰安婦制度の実態

(1)別紙1及び2によれば(引用者注・原告被告双方が主張する事実関係)

・ 昭和7年(1932年)ころから終戦まで、長期に、かつ、広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したこと、

・ 慰安所は、当時の軍当局の要請により設置されたものであること、敗走という混乱した状況下で、慰安婦等の婦女子が現地に置き去りにされる事例があったこと、

・ 戦地に移送された慰安婦の出身地としては、日本を除けば、朝鮮半島出身者が多かったこと、

・ 昭和7年(1932年)にいわゆる上海事変が勃発したころ、同地の駐屯部隊のために慰安所が設置されたことが窺われ、そのころから終戦まで各地に慰安所が存在していたこと、

・ 慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、あっせん業者らがこれに当たることが多かったが、その場合でも、業者らが甘言を弄し、あるいは、畏怖させるなどの方法で、本人たちの意思に反して募集する場合が数多く、また、官憲等が直接これに加担するなどの場合もみられたこと、

・ 業者が慰安婦等の婦女子を船舶等で輸送するに際して、旧日本軍が慰安婦を特別に軍属に準じた扱いにするなどして渡航申請に許可を与え、帝国日本政府が身分証明書等の発給を行い、あるいは、慰安婦等の婦女子を軍の船舶や車両によって戦地に運んだ場合もあったこと、

・ 慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営していた事例が存在したこと、

・ 民間業者の経営にかかる場合においても、旧日本軍において、その開設に許可を与え、あるいは、慰安所規定を設けてその利用時間・利用料金や利用に際しての注意事項などを定めるほか、利用者に避妊具使用を義務づけ、あるいは、軍医が定期的に慰安婦の性病等の病気の検査を行うなどの措置を採り、さらには、慰安婦に対して外出の時間や場所を限定するなどしていたところもあったこと、

・ 利用者の階級等によって異なる利用時間を定めたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の検査をしていた慰安所があったこと

以上の各事実は当事者間に争いがない。

(2)右当事者間に争いがない事実と《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

(1)各地における慰安所の開設は、当時の軍当局の要請に基づくものであるが、その開設の目的は、当時、旧日本軍占領地域内において、日本軍人による住民婦女子に対する強姦等の陵辱行為が多発したことから、これによる反日感情が醸成されることを防止する高度の必要性があったこと、性病等の蔓延による兵力低下を防止する必要があったこと、軍の機密保持・スパイ防止の必要があったことなどが挙げられる。

(2)昭和7年(1932年)に上海事変が勃発したときに、上海に派遣された旧日本陸海軍が当地の駐屯部隊のために慰安所を設置したのが確実な資料によって確認される最初の軍慰安所である。帝国日本が中国に対する全面的な戦争を開始した昭和12年(1937年)以後、中国各地に多数の慰安所が設置され、その規模、地域的範囲は戦争の拡大とともに広がりをみせた。

(3)慰安所が存在したことが確認できる国または地域は、日本、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(当時)、タイ、ビルマ(当時)、ニューギニア(当時)、香港、マカオ及びインドネシア(当時)である。また、慰安婦の総数を示す資料はなく、また、これを推認させるに足りる資料はないから、慰安婦総数を確定するのは困難であるが、前記のように、長期に、かつ、広範な地域にわたって慰安所が設置されていたことから、数多くの慰安婦が存在したと考えられる。

(4)慰安婦の出身地として資料により確認できる国または地域は、日本、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、インドネシア及びオランダである。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地としては、日本人を除けば朝鮮半身出身者が多い。

(5)慰安所の多くは、民間業者によって経営されていたが、一部地域においては、旧日本軍が直接慰安所を経営していた事例もあった。民間業者が経営していた場合においても、旧日本軍がその開設に許可を与えたり、慰安所の施設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての注意事項等を定めた慰安所規定を作成したりするなど、旧日本軍が慰安所の設置や管理に直接関与していた。慰安婦の管理については、旧日本軍は、慰安婦や慰安所の衛生管理のために慰安所規定を設けて利用者に避妊具使用を義務づけたり、軍医が定期的に慰安婦の性病等の病気の検査を行う等の措置をとった。慰安婦に対して外出の時間や場所を限定するなどの慰安所規定を設けて管理していたところもあった。慰安婦たちは、戦地においては常時
軍の管理下において軍とともに行動させられており、自由もない、痛ましい生活を強いられていた。

(6)慰安婦の募集については、軍当局の要請を受けた経営者の依頼により斡旋業者らがこれに当たることが多かったが、その場合も戦争の拡大とともに人員の確保の必要性が高まり、そのような状況の下で、業者らが甘言を弄したり、畏怖させる等の方法で本人たちの意思に反して集める事例が多く、さらに、官憲等が直接これに加担する等の事例もあった。

(7)慰安婦の輸送に関しては、業者が慰安婦等の婦女子を船舶等で輸送するに際し、旧日本軍は彼女らを特別に軍属に準じた扱いにするなどしてその渡航申請に許可を与え、また帝国日本政府は身分証明書等の発給を行うなどした。また、軍の船舶や車輛によって戦地に運ばれた事例も少なからずあったほか、敗走という混乱した状況下で現地に置き去りにされた事例もあった。

別紙1(原告の主張要旨)

第3「従軍慰安婦」

Ⅰ「従軍慰安婦」制度
1 「従軍慰安婦」制度は、日本の軍及び国家によって創設され、管理されてきたものである。

(1)慰安所設置の経緯

 1932年(昭和7年)、いわゆる上海事変が勃発したころ、同地の駐屯部隊のために慰安所が設置され、以後終戦まで慰安所が存在しており、その規模、地域的範囲は、戦争の拡大とともに広がりをみせた。
 上海事変には、上海派遣軍の参謀が「軍慰安所」設置の指示を出して設置にあたり、1937年には中支那方面軍が、1938年には北支那方面軍が同設置の指示を行って設置し、1941年には関東軍が、1942年には南方軍が、「従軍慰安婦」の徴集と配置を行っており、同じ1942年には、陸軍省人事局が「慰安施設」設置結果を報告している。また、海軍においては、1942年の海軍省の文書にて、海軍省がその設置と運営方針を決定していた。
 このように、軍の最高司令部が「慰安所」を設置し、「従軍慰安婦」の配置を行ってきたのである。

(2)慰安所が存在していた地域

 慰安所の存在が確認できた国または地域は、日本(当時の植民地である朝鮮、台湾を含む。)、中国、フィリピン、インドネシア、マラヤ(当時)、タイ、ビルマ(当時)、ニューギニア(当時)、香港、マカオおよび仏領インドシナ(当時)であるが、被告が真摯に調査するならば、その範囲は広がることはあっても減ることはない。

(3)慰安婦の総数

 これを推認させるに足りる資料を日本国は積極的に検索する努力をしないので、慰安婦総数を確定するのは困難である。しかし、慰安所が軍の必要かつ常設の施設であったこと、また、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置されたこと等に照らせば、慰安婦の総数は20万人ともいわれる。

(4)慰安婦の出身地

 慰安婦の出身地は、確認できただけでも、日本、朝鮮半島、中国、台湾、フィリピン、インドネシアおよびオランダが挙げられる。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地としては、日本人を除けば圧倒的に朝鮮半島出身者が多い。

(5)慰安所の分類
 
 第1のタイプは、軍直営の慰安所である。
 第2のタイプは、軍が監督統制する軍(軍人・軍属)専用の慰安所である。これは、特定の部隊専属の慰安所と、都市などで軍が認可(指定)した慰安所がある。

 以上が純粋の軍慰安所である。

 第3のタイプは、一定時期、軍が民間の売春宿などを兵員用に指定する軍利用の慰安所で、軍に特別の便宜を図るが、民間人も利用するものである。この場合、軍利用の程度に応じて国家の責任が生ずることになる。例えば、指定期間にそれが軍人・軍属専用になれば、その期間中は第2のタイプの軍慰安所となる。

(6)慰安婦の募集

 慰安婦の募集については、本件訴訟の被告答弁においても、強制であったことを認めている。軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、斡旋業者らが、純朴な少女を含む女性に対し甘言を弄し、あるいは畏怖させる等の形で行われた。軍当局も業者らの詐欺的又は脅迫的な募集方法を知りながら、これを容認した。
 朝鮮半島、台湾における「従軍慰安婦」の徴集は、軍が選定した業者や周旋人に行わせたものと、官憲によって直接連行されたものがあるが、元「従軍慰安婦」の証言によれば、軍人、憲兵などが、家にきて無理やり連行されたり、路上で官憲につかまり連行されたなどの暴力的強制連行、および金が儲かるよい仕事がある、工場、食堂で働かないか、看護婦として働かないかなど欺罔、あるいは甘言を弄して徴集されたものがある。
 占領地域では、元「従軍慰安婦」によれば、日本兵が家にやってきたり、路上を歩いているところを暴力で連行、強姦され、監禁されて「従軍慰安婦」にさせられ、日本軍によって家族や村の住民が虐殺される状況の中で、若い女性が強姦されたうえ、「慰安婦」とさせられている。また、軍が地元住民に「従軍慰安婦」の徴集を命じて集めさせたり、よい仕事があると騙して連れてきたものもある。

(7)慰安婦の輸送等

 業者が慰安婦等の婦女子を船舶等で輸送するに際し、旧日本軍は、彼女らを特別に軍属に準じた扱いにするなどして、その渡航申請に許可を与え、また、日本政府は、身分証明書等の発給を行うなどした。
 さらに、軍の船舶や車輛によって戦地に運ばれたケースも少なからずあった。
「従軍慰安婦」を船で戦地に送る場合には、陸軍は日本船籍の軍用船に、海軍は軍艦や軍用船により、陸軍が陸路による場合は、鉄道や日本軍のトラックを使った。
日本から渡航する場合、「渡航証明書」の発行は各警察署が、朝鮮、台湾については総督府の下にある警察署が行ってきたが、1942年1月以降は、「従軍慰安婦」の渡航は、軍の証明書で行うようにとの外務大臣の指示が出され、軍の証明書のみによることになった。

2 以上のように、「従軍慰安婦」制度は国家・軍という被告の公務員あるいは総体としての公務員によって作られ、かつ管理、運営されたものである。

 その慰安所での実態は、慰安婦として「慰安所」に監禁された女性に対する組織的、系統的に行われた強姦・輪姦の連続といえるものである。とりわけ、慰安婦にさせられた植民地の朝鮮人女性は、次のような特別の犠牲を強いられた。

(1)女性差別
 奴隷的拘束の下、軍が制度的に継続的に性交を強制した「従軍慰安婦」制度は、性の自由を奪う強姦というべきもので、女性の人格的価値を否定し、人間の尊厳を侵す行為である。
 このように、国家・軍が「従軍慰安婦」制度を自ら推進し、また、これにかかわった多くの業者、将兵もこれに追随した背景には、単に国家目的の最優先、戦争至上主義にとどまらず、女性および女性の「性」に対する抜きがたい差別が存するのである。
 ここには、男性の性に奉仕する「モノ」としての女性観、抑圧の捌け口としての性行為観が明瞭にあらわれている。「従軍慰安婦」制度は、現在にも残存する性差別をあからさまな形で具現化したものである。「慰安婦」制度のもつ性差別としての問題性は、慰安所への徴集に際して、暴行・脅迫を伴なわない場合、あるいは「慰安」行為に対して対価が支払われる場合であっても、同じである。

(2)民族差別
「従軍慰安婦」として徴集された女性のうち、朝鮮人女性の割合は、ある推算によると八割を占めるといわれ、公表された公文書によっても、日本人に比べて朝鮮人の数が圧倒的に多いことが明らかになっている。強固な儒教思想に基づく女性に対する貞操観念が厳格な朝鮮の元「従軍慰安婦」にとって、その「慰安」の強要が彼女ら及びその親族に与えた恥辱の程度は、現代日本の性風俗の尺度では到底測り得ないものである。
 1905年の韓国保護条約、1910年の日韓併合条約以来の植民地支配の中で、日本は、朝鮮の独立運動に対して徹底的な武力弾圧を加え、いわゆる皇民化政策により、朝鮮人からその民族性を奪い、戦争の長期化に伴なう人的資源の不足を補うため、軍人・軍属、軍需産業労働者として強制的に狩り出した。朝鮮人女性を「慰安婦」として狩り出したのも、このような植民地支配の下での朝鮮民族差別の一環としてなされたものである。

Ⅱ日本政府の対応
 政府は、戦争末期および敗戦直後に、慰安所関係の文書の焼却命令を出して証拠隠滅を図り、その後も戦後40年以上にわたって何ら調査すらしないまま放置し続けてきた。
 日本政府は、1990年6月、「従軍慰安婦」問題が国会で取り上げられた際にも、「民間の業者が連れ歩いたにすぎない」と関与を否定する答弁をなし、実態調査も拒否した。1991年4月、「慰安婦」とみられる者の名簿が見つかったが、「当時の関係者からの事情聴取をしたが、関与していなかった。調査すべく努力したが手掛かりがない」と、あいかわらず十分な調査もしないまま国の責任を否定するに終始した。
 1992年1月、軍の関与を示す文書が発見されるに至り、ようやく関与の事実を認め、首相が訪韓時に謝罪の言葉を述べたが、補償については日韓条約で解決済みとの態度を崩さなかった。また、同年7月には、国の関与を示す文書をようやく公表したものの、強制行為については、「これを裏付ける資料はない」とした。
 1993年8月4日、政府は、第二次報告書を発表し、「総じて強制であった」と認めた。さらに日本政府は、1994年1月28日、女子差別撤廃委員会において、女子差別撤廃条約の実施状況に関する日本政府の報告審議における同委員会委員からの本問題に対する早期解決を求める指摘に対し、「日本政府は、この問題について1991年12月から調査を開始し、1993年8月4日には、調査結果を発表しました。そこでは、肉体的にも精神的にも苦しみを受けてきた、こうした慰安婦の女性達に謝罪しました。従軍慰安婦問題については、日本政府は、これまでサンフランシスコ条約や関連する条約に従い、誠実に対応してきましたが、問題の性格上、どうしたらこのような自責と謝罪の気持を表せるのか、真剣に考えております。」と回答をなした。その真剣に考えたとされる結果として、日本政府が提示した民間基金については、元「従軍慰安婦」の被害者の多くが、日本国の法的責任を回避する欺瞞であるとして、これを拒否している。