「“ 日本軍が朝鮮女性等に 強制的 ” に売春行為をさせた事実などない」吉田あい杉並区議発言を検証する③


「“ 日本軍が朝鮮女性等に 強制的 ” に売春行為をさせた事実などない事は、今や周知の事実です」
 
 吉田あい杉並区議はブログ上でそう発言している。http://yoshida-ai.com/index.php?itemid=992

 吉田氏が根拠のひとつとしてあげる原審山口地裁下関支部の裁判について、一審判決の事実認定を引き続き紹介する。なお2審広島高裁判決、ならびに最高裁判決については、1審判決の検証が終わったのちにみていきたい。

 今回紹介するのは、原告朴頭理(パク・トゥリ、故人)氏の被害体験である。

山口地裁下関支部平4年(ワ)349号・同5年(ワ)373号・同6年(ワ)51号事件1998年4月27日判決の事実認定部分より引用。

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2 慰安婦原告らの被害事実

 反証はまったくないものの、高齢のためか、慰安婦原告らの陳述書やその本人尋問の結果によっても、同原告らが慰安婦とされた経緯や慰安所の実態等については、なお明瞭かつ詳細な事実の確定が殆ど不
可能な証拠状態にあるため、ここでは、ひとまず証拠の内容を摘記した上、末尾(別紙1=筆者注)においてその証拠価値を吟味し、確実と思われる事実を認定することとする。

(中略)

原告朴頭理の陳述と供述

(1) 原告朴頭理(パク=トゥリ、故人)は、陰暦1924年(大正13年)、現韓国慶尚南道三浪津郡で生まれた。同女は、七人兄弟の一番上に生まれ、弟3人と妹3人がおり、家の暮らしぶりは非常に貧しかったため、自分が働いて金を稼いで家に入れなければならないと思っていた。同女が数えで17歳のころ、3人の男が娘たちを集めるために、同女らの家族が住んでいた村にやってきた。同女の家にも、50歳以上と思われる朝鮮語と日本語を話す男が訪ねてきて、同女に対し、「日本の工場で金になる仕事がある。」と話しかけてきた。同女は、日本の工場に行って働き、一儲けして父母を養いながら嫁に行きたいと考え、その男の話を信用して日本の工場へ働きに行くことに決めた。同女は、父母に対し、「日本で稼いで家族に仕送りがしたい。」と申し出たところ、父母はこれを疑うこともなく反対もしなかった。その後、同女を勧誘した男が、同女と10人くらいの村の娘らを一緒に釜山に連れて行った。同女は、釜山から大きな船に乗せられて台湾に連れて行かれた。

(2)船酔いがひどかった同女は、病院に入院した後、慰安所に連れて行かれた。同女を勧誘した男が慰安所の主人であった。主人は、同女に対し、「客をとれ。」と述べ、同女は、「それは話が違う。」と逃げようと考えたが、言葉も道も分からず、頼れる人も知っている人もいないため逃げることはできなかった。同女は、男と接したのはその時が初めてであり、乱暴な暴行を受け、軍人たちから強姦された。日本人の軍人が客の多数を占めていたので、慰安所において朝鮮語を使うことは暴力によって禁止されており、同女の呼び名も「フジコ」であった。

(3)同女は、1日に10人前後の男の相手をさせられ、性交渉を強要された。休みは1か月に1日だけであり、自由な外出もできなかった。慰安所での食事は粗末であり、食べたい物を買う金もなく、あまりの空腹のため慰安所の近くのバナナ園のバナナを取って食べ、そのことでバナナ園の主からも、慰安所の主人からもひどく叩かれたことがある。同女は、台湾にいた5年間、慰安所の主人から金をもらったことはなく、位の高い軍人の客からもらうチップも、慰安婦として身綺麗にしておくための化粧品を買える程度のものだった。国民学校に通っていた弟が「文房具を買ってほしい。」と同女宛てに書いた手紙が届いた際、同女は金が1銭もなく、泣いていたため、他の慰安婦の娘たちが同情して募金をしてくれ、その金で文房具を買って弟に送ってやったこともあった。同女は、慰安婦として長年性交渉を強いられたことにより、右の太股の下がパンパンに腫れ上がるという病気に罹り、その手術痕が現在でも遺っている。

(4)同女は、敗戦後、慰安所の管理人であった朝鮮人の男に連れられて船で故郷に帰った。同女は、父母に対し、「台湾にある日本の工場で働いていたが給与はもらえなかった。」と虚偽の事実を述べた。その後、同女は、結婚し子供も生まれたが、台湾の慰安所での生活のことは隠し通してきた。同女は、本件訴訟提起により慰安婦であったことを実名にて初めて公表した。



別紙1

原告朴頭理の被害事実

1 原告朴頭理は、陰暦1924年、現在の韓国慶尚南道三浪津(サムナンチン)郡にて、父丙松夫と母戊春子の間に生まれた。同原告は、7人兄弟の一番上に生まれ、弟3人と妹3人がおり、家の暮らしぶりは非常に貧しかったため、自分が働いてお金を稼いで家に入れなければならないと思っていた。同原告が数えで17歳のころ、道長の所でどこの家に娘がいるかを調べてきたという男たちが娘たちを集めるため、同原告ら家族が住んでいた村にやって来た。同原告の家にも、50歳以上と思われる朝鮮語と日本語を話す男が訪ねてきて、同原告に対し「日本の工場でお金になる仕事がある。」と勧誘した。同原告は、日本の工場へ行って働いて、一儲けして父母を養いながら嫁に行きたいと考え、その男の話を信用して日本の工場へ働きに行くことを決めた。同原告は、父母に日本で稼いで家族に仕送りがしたいと告げ、父母はこれを疑うこともなく反対もしなかった。
 
 その後、同原告を勧誘した男が、同原告と10人くらいの村の娘らを一緒に釜山へ連れて行った。同原告は、釜山から大きな船に乗せられ台湾に連れて行かれた。

2 船酔いがひどかった同原告は、病院に入院した後、慰安所に連れて行かれた。同原告を勧誘した男が慰安所の主人であった。主人は、同原告に対して、客を取れと言い、同原告は、それは話が違うと逃げようと考えたが、言葉も道も分からない、頼れる人も知っている人もないため、逃げることはできなかった。同原告は、男と接したのはその時が初めてであり、幾ら反抗しても、乱暴な暴行を受けたことにより、反抗を抑圧され、軍人たちとの性交渉を強要され、もって強姦された。
 
 慰安所の客は日本人の軍人が多数を占めていたので、同所にて朝鮮語を使うことは暴力によって禁止されており、同原告の呼び名も「フジコ」であった。同原告は1日10人前後の男の相手をさせられ、性交渉を強要されない休みの日は1ケ月に1日だけであり、自由な外出もできなかった。

 慰安所での食事は貧粗であって、食べたい物を買うお金もなく、あまりの空腹のため慰安所の近くのバナナ園のバナナを取って食べ、そのことでバナナ園の主からも慰安所の主人からもひどく叩かれたことがある。同原告は、台湾にいた5年間、慰安所の主人からお金をもらったことはなく、位の高い軍人のお客からもらうチップも、慰安婦として身綺麗にしておくための化粧品を買える程度のものだった。国民学校に通っていた弟が文房具を買って送って下さいと同原告に宛てた手紙が来た際、お金が1銭もなく泣いていた同原告を他の慰安婦をさせられていた娘たちが同情して募金したお金で文房具を買って弟に送ったことがあった。

同原告は、性交渉により右側の太股の下の方がパンパンに腫れ上がるという病気に罹り、その手術の痕が残っている。

3 確かに、同原告が慰安婦をさせられた慰安所の設置管理が旧日本軍によって行われたものかは明らかでない。しかし、同原告の供述によれば、台湾での5年間、旧日本軍の部隊が移動するのに合わせて、慰安婦らもトラックに乗せられて移動させられたこと、慰安婦の性交渉の相手のほとんどが日本人の軍人であったことから、いわゆる部隊お抱えの私設慰安所であったと考えられる。このような私設慰安所が存在したことは、甲27号証の123頁乃至126頁に記述されている。同記述によれば、部隊の宿舎の近くで、部隊が軍からの公認を受けずに慰安所を女将に経営させ、同所を連隊命令を受けた兵士が監視していたのであり、軍もかかる私設慰安所の解散を部隊に命ずることなく放任していたことが窺える。

4 同原告は、日本の敗戦すなわち解放後、当時の慰安所の管理人であった朝鮮人の男に連れられて船で故郷に帰った。同原告は、父母に対し、台湾にある日本の工場で働いてきたがお金はもらえなかったと告げた。

 その後、同原告は、結婚し子どもも生れれたが、台湾での被害事実は隠し通してきた。同原告が1992年の本件訴訟提起によりその被害事実を実名にて初めて公にしたその3年後、1995年に同原告本人尋問が行われた。

 同原告は、被告が同人の被害事実に対して何ら国家賠償も国家補償もしないこと、被告は同人が死して黙するのを待っているのではないかという強い憤りの念を持っている。現在まで何ら被告が法的責任を認めた上での謝罪と賠償・補償がなされない故に、同原告の精神的苦痛は増大するばかりである。

つづく